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【比較】 〜「三丁目の夕日」に想う〜

正月に古本屋で買ってきた、マンガ「三丁目の夕日」を見てて…ふと、
そういえば、いつから「隣」を意識したのかなぁ?

自分が生まれた昭和30年代はまだテレビも目新しく、テレビの無い家も結構あったように思う。
その当時は情報といえば、ラジオか地元の新聞くらい。
子供の自分としては新聞は見ることがないから、情報はほとんど入ってこない。
当然、近所の子供も一緒だ。

遊びといえば、アウトドアが基本。
インドアではせいぜい「お医者さんごっこ」(@_@;)?
遊び道具も特別お金がかかるものでもなく、ただただ泥んこになっていたような。
晩御飯もステーキなんて言葉も知らず、牛肉なんて見たことも無く、
「わぁ、今日はご馳走だ!?」という「ご馳走」がなんだったんだろう?

だから隣と比べることも少なかったような気がする。

「金持ち」と「貧乏」の比較も、せいぜい村中を走って回れる範囲の比較。
それも物が少なかった時代だから、当然比較要素もまた少ない。
子供から見たら、高い絵だとか陶器なんて、なんの興味も無いからなおさらだ。

比べるようになったのはいつの頃からだろう。

たぶん「テレビ」なんだろうなぁ。
「テレビ」を見て、東京という都会と田舎のギャップを感じ、それにあこがれる。
あこがれたら、そこに行きたくなって、そして欲しくなる。
欲しくなったら、がんばって手に入れる。

だから、進歩する。

テレビ、洗濯機、冷蔵庫の家電が一般化する頃に、隣の家との比較が始まったように想う。
そのうち夕飯が、オムライス、すき焼き、しゃぶしゃぶと豪華になっていく。
遊びもテレビゲームが始まったら、アウトドアじゃなくインドアがリッチになってくる。
力関係も、力の強いガキ大将から、金を持っている賢い少年に変わってきた。

自分自身の経験だけで計れない経過がそこにはある。

情報自体が日本国内から、海外の情報へと移り変わった。
多分、円が360円の固定から、変動に移った頃だったと思う。
人間の情報への欲望ははてしないものがある。

でも、知らなかったら…

知らなくても、何も問題がない、はず。
電気も、車も、フランス料理も…

「民」という字は、「目玉に針をつきさした様子をかいた字」だそうだ。
  《盲目にした奴隷→無知の人々→一般の人々》
ようするに「情報」を与えない者のことを言うのだ。
為政者は、その情報を操ることにより、平民を支配していたのである。

知りすぎることと、知らないこと。
いったい、どちらが幸せなんだろう?

言えることは、知っちゃったものは、知らない振りはできないということかなぁ?
元に戻れると思わないもんなぁ。

比較とは、比較する対象物があることだな、きっと!

あれっ?「三丁目の夕日」って、本当の題名は「夕焼けの詩」って言うんだ。
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正月久々に一緒に飲んだ70代の親父に聞いた。
「子供の頃、ご馳走と思った食べ物は?」
「オムライス!」と即答。
その頃住んでた田舎(旧青森県田茂木村)では見たこともなかったそうだ。
(そりゃそうだ。今でも食堂というものがないのだから)
という田舎から、その地区の街・五所川原市に出かけ食堂に入り、黄色い食べ物を見てビックリしたんだそうだ。

親父の代での情報範囲は、馬車で3時間かけて年に1、2度出かける距離なのである。
たぶん車が一般的になるのはその後だから、大正も明治も、情報範囲としてはあまり変わっていなんだろう。

それに比べて、ここ数十年の情報スピードはとてつもない範囲を網羅している。

もちろん、まだまだ知らないことが一杯あるのも事実だろうが、
成熟した社会、今までのような「のびしろ」は期待できないのではないでだろうか?

ここにきては、もう少し落ち着いた方がいいかもしれないですね!?
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20:52  Posted by juzji
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